『伊賀国出身の剣豪 荒木又右衛門』
『伊賀国出身の剣豪 荒木又右衛門』
伊賀服部郷 荒木村出身の荒木又右衛門は、幼少から中条流や神道流を学んで剣術の腕を磨き、後に柳生宗矩やあるいは柳生十兵衛の下で新陰流を学んだといわれています。郡山藩に取り立てられる前の空白7年間といわれる時期が新陰流修行の期間であったともいわれています。又右衛門は卓越した技量から大和郡山藩の剣術指南役250石に取り立てられました。藩主は将軍徳川家康の孫で後に養子となる松平忠明であり剣術家としては大きな誉れでありました。しかし寛永10年、義弟の助太刀の嘆願を遂に承諾した又右衛門、高禄を捨てて藩を出て有名な「鍵屋の辻の決闘」へと挑みます。仇討ちの相手である河合又五郎を護衛するのは総勢11人(講談では脚色され36人斬り等と言われています)尼崎藩槍術指南役 “霞の半兵衛”こと桜井半兵衛や、郡山藩 剣術指南役の河合甚左衛門といった達人を寛永11年11月7日に討ち取り、仇討ち成就に導きました。仇討ち成就の1年後、戸波又兵衛に新陰流に入門するという形の起請文を起こしました。起請文に書かれた流儀名は「新陰流兵法」と堂々と書かれており書は藤堂新七郎家にて保管されていましたが現在は伊賀越資料館(休館中)にて展示されています。この起請文は何らかの理由で破門扱いであった荒木又右衛門の再入門を世に宣言するものではないかという説もあります。当時、徳川家の御流儀たる新陰流の剣士が天下を騒がせる仇討ちの中心人物となることはとうてい許されぬものとして、その接点は秘匿抹消されてきた可能性を示唆しています。また荒木家は又右衛門のみならず新陰流とのゆかりが深く、寛政7年2月に六代目 荒木平馬が柳生但馬守へ入門するよう命じられており、同年8月に但馬守から将軍へ三本之太刀が伝授された際に荒木平馬も同様に伝授を受けたといわれています。
【出典・参考】
『伊賀市史』通史編 第二巻 第三巻
『名張市史』
『津藩分限役付帳』名張市所蔵
『御学館内絵図』伊賀市上野図書館蔵
『藤堂藩の新陰流兵法』村林正美
『荒木保明家譜』鳥取県立博物館蔵
『増補 藤堂高虎家臣辞典附分限帳』佐伯朗
『藤堂高虎と家臣逸集』佐伯朗
【協力・監修】
玄忠寺
荒木又右衛門記念館
伊賀市上野図書館
新陰流兵法 碧燕会
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