『石舟斎も頭上がらぬ剣豪 松吟庵』

柳生七郎左衛門重厳 (松吟庵)は、家厳の弟、宗厳(石舟斎)の叔父である。

※松吟庵は石舟斎の弟などの説を見受けるが、天文三年 丹生神社奉納現存の大般涅槃経の奥書に「奉寄進本願 松吟庵長虞敬白」とある(重要文化財として正式に認められたものである)。天文三年は、石舟斎五歳、家厳三十五歳。

松吟庵は、若年の頃、大和の室生寺に入って、山伏兵法を習い、その後諸国を武者修行。京都で京流、越前一条谷に伝わる中条流を学ぶ。又、香取勘十郎に学び、石舟斎に指導する。

津田宗達に用心棒として雇われる。

津田宗達を介して松永久秀と知り合い、茶の友として交際する。

松永久秀が多門山城、志貴城を支配していた時、身辺を狙う輩があり、身辺護衛のため腕のたつ者として松吟庵、神内兵衛(松吟庵の弟子)、林崎甚助が護衛に付く。

林崎甚助に師事し、居合術にも一境地を開く。

津田宗達を介して津田宋及や千宋易と茶人として交際する。

剣の達人として子弟の養育を行う。

長女 南都衆水の坊に嫁す。

長男 興福寺長職坊

次男 喜七郎宗直 松吟庵の跡を継ぐ。

柳生喜七郎宗直は、幼くして石舟斎と共に、父松吟庵について兵法を学び、当時ひとかどの兵法者であった。石舟斎の片腕として仕えた。

十七歳の時、父の勧めで諸国修業に旅立ち、京都で知り合った吉岡剣法の縁者の女性と結婚。

嫡男 源太夫三秀

長女 笠置村郷士森島又七郎に嫁す。

次男 喜七郎頼房(吉兵衛宗房)

柳生源太夫三秀は、柳生藩内抗争で寛永十八年二月八日紀州藩剣術指南役木村助九郎の子、吉兵衛と共に村木茂作の子を殺害。宗矩は、後のいざこざを避ける為に、藤堂藩江戸屋敷へ源太夫を預け新陰流の指導に当て、ほとぼりのさめるのを待った。

宗冬の代に、知行百石で柳生に戻り新陰流の弟子への指導を行う。

祖父(松吟庵)、父(喜七郎)から受け継いだ業の研鑽に励み杖術に取り組み、柳生杖を完成し、杖師玄斎となり、三百石となる。



            柳生 七郎左衛門重厳 (松吟庵) 
                      柳生 喜七郎宗直 
                      柳生 源太夫 三秀(杖師玄斎)
         元祖 津田 武左衛門 直勝
            津田 源太夫 勝辰
            津田 武左衛門 勝章
            津田 武太夫 三全
            津田 武左衛門 三省
            津田 武左衛門 三友
            津田 武左衛門 三鑑
            津田 武之助 三昭
            津田 収
            津田 脩一(第二次大戦にて戦死)
            津田 武雄(第二次大戦にて戦死)
            津田 清
            津田 和則
            津田 武左衛門 正和






新陰流兵法 碧燕会 伊賀支部

新陰流兵法 碧燕会 伊賀支部のホームページです。