伊賀と新陰流

 伊賀国は日本三大仇討ち「鍵屋の辻の決闘」で名高い新陰流の剣豪・荒木又右衛門の出身地であり、同時に仇討ち達成の地として新陰流として大変ゆかりの深い地域でございます。仇討ちが行われた場所は「鍵屋の辻史跡公園」として今でもその武勇を伝えています。


『伊賀国出身の剣豪 荒木又右衛門』

 伊賀服部郷 荒木村出身の荒木又右衛門は、幼少から中条流や神道流を学んで剣術の腕を磨き、後に新陰流を学んだといわれています。卓越した技量から大和郡山藩の剣術指南役250石に取り立てられました。妻の弟の仇討ちに助太刀し、尼崎藩槍術指南役 “霞の半兵衛”こと桜井半兵衛や、大和郡山藩 剣術指南役の河合甚左衛門といった剣豪を討ち取り、仇討ち成就に導きました。また荒木家は、又右衛門のみならず新陰流とのゆかりが深く、寛政7年2月に六代目 荒木平馬が柳生但馬守へ入門するよう命じられており、同年8月に但馬守から将軍へ三本之太刀が伝授された際に荒木平馬も同様に伝授を受けたといわれています。


『武家名門出身 剣の達人 戸波又兵衛親清』

 また、藤堂高虎に仕えた武将で剣術の達人・戸波又兵衛親清は伊賀で新陰流を教えていたことでも知られています。戸波又兵衛親清は大阪夏の陣「八尾の戦い」において二番槍の武功を挙げたことでも有名でございます。戸波家は武家の名門・長宗我部一族の出身で、親清の父・親武が戸波城の城主に任ぜられた際に戸波姓を名乗りました。後陽成天皇の第四皇子・関白 近衛信尋の推挙によって藤堂高虎の家臣となったといわれています。

『柳生家随一 小太刀の名手 津田武左衛門直勝』
 藤堂藩において有名な新陰流の師範の一人として津田武左衛門直勝がいます。柳生家出身で小太刀の名手といわれた津田武左衛門直勝は新陰流を多くの藩士に教えました。さらに津田家は幕末まで代々新陰流の師範役として務めました。当初は柳生家出身の津田武左衛門直勝といえど新陰流の呼称を使うことが禁止されていましたが、第三代藩主 藤堂高久の尽力もあって第四代藩主 藤堂高睦の時代(元禄16年頃)に正式に柳生家から新陰流の呼称使用許可を得ました。歴代津田家は定期的に柳生家による形直しの指導を受けながら技術の研鑽に努めたほか、安永9年に四代津田武太夫三全は柳生家への出入勝手次第の許可を受けました。

『新陰流二世 柳生石舟斎の孫 柳生九左衛門宗次』
 新陰流三世 柳生兵庫助(石舟斎の孫)は、尾張藩御附家老・成瀬隼人正の推挙を受けて尾張大納言 徳川義直の兵法師範として仕えました。 同じく成瀬隼人正の肝煎で藤堂藩に三百石で召し抱えられた石舟斎の孫がいます。 石舟斎の次女が嫁いだ大塩九左衛門の子で、母方の柳生姓を許された柳生九左衛門宗次です。 大坂両陣では藤堂主膳吉親(藤堂高虎の家老)組に所属し、百石加増される働きをしています。


 現在、赤門の愛称で知られる史跡旧崇広堂では、藩校時代に新陰流道場があったことも知られており、「御学館内絵図」の崇広堂見取図にも描かれております。道場では戸波又兵衛親清の伝えた新陰流(戸波流)や、代々津田家が教えた新陰流の道場の場所も記載されております。江戸初期から幕末まで脈々と新陰流が伊賀でも伝承されていたという点から、極めて重要な流派として位置づけられていたといえます。


出典・協力
『伊賀市史』通史編 第二巻 第三巻
『名張市史』
『津藩分限役付帳』名張市所蔵
『御学館内絵図』伊賀市上野図書館蔵
『藤堂藩の新陰流兵法』村林正美  島羽商船高等専門学校
『荒木保明家譜』鳥取県立博物館蔵
玄忠寺
荒木又右衛門記念館
新陰流兵法 碧燕会